2012年08月28日

パラドックス

 「私は嘘つきである」という、有名なパラドックスがある。「私」が「嘘つき」である以上、「私は嘘つき」という言もまた「嘘」であるはずであり、「嘘つき」が「嘘」なら「正直」でなければならない。よって、これは矛盾するという奴である。

 まぁ、実際には「嘘つき」と称される人にしたところで、発言の全てが嘘というわけではない。ある程度の真実に嘘を混入しないと効果的な「嘘」はつけないというのもあるし、発言の全てが嘘であればそれはそれで会話やら生活やらが成立しなくなってしまうのも、ちょっと考えればわかる話だろう。故に、このパラドックスは正しいとは言えない。これを正しくパラドックスとして表現するには、「私の言葉は『すべて』嘘である」的なものでないといけないのではなかろうか。

 このパラドックスそのものは一旦横に置いておいて、この話をもう少し噛み砕いてみよう。一般生活において「私は嘘つきである」と言われる人の言葉を、人は信用するだろうか。普通に考えれば、否、である。だが、ここで「信用しない」とする根拠は、「私は嘘つきである」という言葉である。そしてその言葉は嘘つきだとされる人物によって発せられた言葉でだ。故に「信用しない」と主張する人は、その「私は嘘つきである」という言葉にだけは「絶対的な信用」を置いていることになる。つまり「この人物は嘘つきだ」と判断した相手そのものの言葉の一つを信じているに他ならない。そう考えると非常に滑稽である。

 ところでネットの世界を漂っていると、これに近い事象を案外見かける。具体的には、「ソースがWikipediaかよ」的な反応をする人たちである。中には、この言葉だけで相手を論破したぞくらいの気分が前後の文章から伝わってきたり、自信満々に芝生まではやしたり、もうこれでどうだ的な必殺技みたいな雰囲気で自信満々に書いているんだろうなぁという感じの人を結構見かける。

 確かに、Wikipediaは基本的に誰にでも書き込み、改変することが出来る存在である。故に、不十分な知識を持った者による誤った情報や、意図的に間違った改変などが混在する可能性は十分にある。故に情報の最終的なソースとしては、一段信頼性の劣る物であるという考え方は理解できる。まぁ、ぶっちゃけ政府広報にしろ新聞やニュースにしろ一定以上の偏りが見受けられる現在の日本では、それらと比べてWikipediaの信頼性はどっちが低いのかな、などと考えだしたら結構微妙になってしまうのではないかとも個人的に思わなくもないが。

 では、そもそも「情報ソースとしてWikipediaが信用ならない」という情報のソースはどこか。これはWikipediaの性質的な物ではあるが、この情報のソースを最終的なところまで辿ると、他でもないWikipediaそのものに辿り着く事は明らかであろう。

 Aという人が「私は嘘つきだ」と言った。Aが「嘘つき」という情報のソースは、A自身の「私は嘘つきだ」という言葉であり、A自身の言葉は最初に述べた通り、パラドックスに陥る。では、これを踏まえてBとCという第三者がいたとする。Bが「Aがこう言ってたよ」と言い、それに対しCが「Aは嘘つきなんだから信じられるわけないだろ」と言ったとしよう。この場合、Cが「信じられない」とする論拠、情報のソースはやはり「私は嘘つきだ」というAの言葉に他ならない。Cの主張は、論拠を含めて書きなおせば「Aが嘘つきだってAが言ってたよ」となる。これはこれで別のパラドックスとなろう。Cが主張する「Aが嘘つきだから信じられない」なら、「Aが嘘つき」というCの主張もまたAの首長に由来する以上、Cは自分自身の発言をも「信じられない」と定義しているに他ならないわけだ。

 このケースでAをWikipediaに置き換えて考えてみよう。そうするとネットでよく見かけるやり取りが、この上なく滑稽な物に見えてこよう。つまりは、誰かの意見に対し「ソースはWikiかよ」と嘲笑している人物は、同時に自分自身のその書き込みを嘲笑しているに他ならないわけだ。同様に、情報源がWikipediaだからという理由で何かを否定した人間は、同じ理由で自らのその発言を否定したに等しい。しかもこの手の書き込みの前後の文を見るに、それについてはおそらく気づいていないケースがほとんどであるように見受けられる。

 では、なぜそうなるか。理由は簡単である。先のパラドックスとは違って、Wikipediaの内容には真実も混ざっている。だが、まるで全てが嘘であるかのように表現してしまうから、こうしたパラドックスが発生するのである。

 この手のやり取りの有用性を考えるに、相手を攻撃するために、相手の論拠となる情報ソースを嘘だと断じることで自らの優位を得ようとする手段に起因しているのだろうと小生は分析する。相手を論破できない負け確定側の人間が、相手の情報源がWikipediaだというだけで、「情報そのものが真実かどうか関係なしに」相手の情報源を否定することで、相手の論拠を覆そうと攻撃する、そのための言葉、手段が元となっているわけであり、今でもそういった方法のために使われる事が多い。ぶっちゃけそれ以外に論破するべき欠点や矛盾が相手の理論にあるなら、べつにWikipediaを否定するまでもなく、そこを突けば良いわけだ。それが出来ないからこそ、理論や情報そのものではなく、全く別の方面から相手の論拠を否定するという手段に出るしかないのだろう、と分析出来る。

 ただ、この手段を成立させるためには、「Wikipediaの『全情報』は信用に値しない」かのごとく相手に誤認させる必要がある。よって、本来の姿である「Wikipediaは誤った情報『も』含む『可能性がある』」を「Wikipediaは『全て誤り』である」かのようにすり替えて再定義するという手段をとる。ぶっちゃけ詭弁の方法の一つである…というか、むしろ詐欺の手法に近い。

 当然、こんな詭弁をやっていれば無理が生じる。その無理が、先に記したパラドックスとなっているのではなかろうかと、小生は考える。

 情報ソースに気を使うならこそ、あるいは気を使えと相手に指摘するならばこそ、『情報ソースがWikipediaなら信用してはならない』という考え方のソースがそもそもWikipediaに行き着く事に気づかなければならない。要はネット上の定型句に煽られて、そこで思考を止めてはいけないのだと思うし、情報のソースに気を使えと言う側こそ率先して気を使わねば示しがつくまい。

 詭弁の多くは、一部分だけ取り出してみれば十分に理があるものだ。というか、そもそもそういう作りにしないと詭弁そのものが成立しない。だが、その詭弁自身が持つ理の部分によって詭弁自身が破られることもある。これは、もしかしたらそういう種類のパラドックスのお話なのかもしれない。
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2012年08月17日

八月虻い

 言葉という物は、時代とともに変化する・・・という説がある。だが、変化の源はそれだけであろうか。時間経過による変化は、発音しにくい組み合わせが発音しやすい形に変化するだとか、そういった簡略化や表現の容易化が多くなりそうな気もする。では、時間以外の要因は何かと考えると、最も明快なのは「新たな概念」が出来た時であろう。

 新たな概念とは、わかりやすい例えを出すなら「新たな名詞」ができる時であろうか。つまりは、世の中に「コンピューター」なる物が出来た時、言語は相応する名詞を必要とするわけである。昨今の日本語では、特に諸外国で作られた概念に対する対応は、片仮名を使用することで容易に対応できる。これは、言語的にはものすごい強みなのではないかと思ったりもする。

 かといって、では外来語は全て片仮名かというと、案外そうでもない。例えば「万有引力」という単語は、日本に輸入された論文を和訳する時に考えだされた言葉だという話もあるし、先にあげた「コンピュータ」にしたって「電子計算機」という日本語がある。

 いずれにせよ、言葉という物が仮に変わらないような性質の物であれば、古来の日本の言葉を今でも我々は用いているはずだという話になる。そして、実際には「古文」を学校で習わねば、当時の文書の意味を読み取る事すら難しい程まで変化しているわけであるから、単純にこれだけの事象をとっても、少なくとも時間経過によって言葉という物が変化することは証明する事が出来る。

 ところで、時間経過でも概念でもなく、突発的に言葉が発生することがある。有名なところでは「うるさい」という語に「五月蝿い」という文字を当てた例であろうか。確か、夏目漱石であったか・・・一人の小説家の、一遍の話にあったたった一つの単語が、すっかり日本語として定着してしまった物である。夏目漱石は当時から面白い言葉を使う人物と評されていたようで、他にも幾つかの「新たな単語」を現代に残しているとか。どこぞの新聞コラムが昨今の若者言葉を見て「乱れた日本語」などとわめき立てたりするが、漱石が作った言葉は良くて、若者が作った言葉は日本語として正しくないのか、そのどこに違いがあると言うのだ、と問いただしたい気もしないでもないが、何はともあれそんな感じで「誰かの考えた」言葉が世に出て定着してしまうケースもあるように見受けられる。

 で・・・その五月蝿いという単語だが・・・実は、先日とある露天風呂に入ってきた。季節柄、山地には「虻」が大量にいるわけで、おかげで風呂の周りにも虻が大量にいるわけで・・・。ヤバイ。これはマジヤバイってくらい虻にたかられて来た次第である。何が言いたいかと言うと、五月蝿は「うるさい」で済むが、八月虻は「うざい」とか「やかましい」とか、「うるさい」もう一段強い単語を割り当ててもいいのではないかと、心の底から思った次第である。いや、ホント勘弁してください。

 あぁ・・・何かいい虻対策ってないもんかなぁ。
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2012年08月12日

くじ引きアルゴリズム

 とあるオンラインゲームに、1回200円でゲーム内の装備やアイテムが当たる「くじ」がある。いや、くじがあるというだけなら昨今では全く珍しくもない事だが、このゲームに関しては少々興味深い事がある故、小生が個人的に注目していたりする。

 なぜそれに限って注目に値するかというと、その「くじ」の確率分布が明らかになってしまったためである。いや、確率分布そのものは正直どうでもいい。たとえ公式からのアナウンスで「魔法職は絶対入手しておきたいアイテム」などと謳ったものが実は入手確率0.01%であり、わかりやすく計算するとは200円のくじを1万回…つまりは200万円つぎ込まないと手に入らないレベルの物であるという事が判明してネットを騒がせていたりもするのだが、個人的に気になって仕方ない事は完全に別の場所にある。

 というのも、そもそもその確率分布が明らかになった「理由」が面白い。くじ引きの結果を表示するページ、つまり「〇〇が当たりました」というのを表示するページの末尾が、数字になっていたそうな。で、その数字を変えてアクセスしてみたところ、1万の連番ページがあり、一つ一つアクセスしてみると当たったと表示される物が変わったそうな。それが故に、1ページしか当たりのなかった目玉賞品は確率が0.01%となり、同様に5ページあるアイテムは0.05%、といった具合で1万通りの当たり具合がわかるという事だそうな。

 つまりくじ引き部分のアルゴリズムは、1万までの乱数を作って、一定数を足して、その前の方に"http://〜〜〜"という文字列を足したアドレスを返している、という事になる。小生が着目するのは、ここである。

 これを実現するためには、1万個分のページを用意しなければならない。賞品の数が1万種類あるのであれば、それでいい。だが、実際に賞品となるアイテムの数は40個かそこらである。つまり、重複するデータがやたら多い。故にどう考えたってhttpのサーバ側でアドレスを変換しているはずである。だが、本当にそれを処理すべき場所はhttpサーバであろうかと考えると、ぶっちゃけありえない話だと思う。

 乱数を振って、賞品を決める。ここまでは、いい。問題は、次だ。普通にアルゴリズムを考えれば、何が当たったかを判断する。つまり、賞品が40種類なら、0〜39なり1〜40なりの数字を吐き出す。で、相当するアイテムをキャラクターに放り込む。それと同時に、何が当たったかを表示するアドレスにジャンプする…というのが、普通の考え方であろう。

 裏を返せば、その会社はくじ引きCGIでは乱数を発生させることだけしか出来ず、それをhttpサーバ側で一生懸命何とかするという方法を採るようなレベルの会社である、という事だ。で、恐ろしいことにそんなレベルの会社が、オンラインゲームを運営しているのである。

 すげぇ。世の中、進歩したもんだ。素人だってやらないようなアルゴリズムが平然と通る会社がオンラインゲームを運営できるなんて、もはや馬鹿でもオンゲ運営できちゃうねってくらいの進歩だ。これは驚愕せずにはいられない。いや、ホント驚いた。

 だが…まさかそんな事を本当にやってる訳がなかろうて。URLの変換はhttpサーバがやってるとして、実際にそんな事をやってたりする訳がない…と思っていた。が、甘かった。

 というのも、その会社はくじの確率の話はネットで広まるとすぐに「負荷軽減」と称してこれを対策、小生が「普通」だと言ったようなアルゴリズムによるアドレス管理に変更したのだ。しかも、1〜40の数字とかではなく、ランダムな英数字を用いたある意味暗号化したアドレスにしたのである。ただ、同じアイテムは同じアドレスという状況なあたり、多分に付け焼刃的な対策であるのも事実ではあるが。

 で、このタイミングでこの対処。ボロが出たというか、馬脚を現したというか、状況から判断するにどう見てもネットに出ていた確率分布が正しかった、という見方以外には有り得ないと言えよう。ならば、結果表示もかなり阿呆なアルゴリズムが使われていたということであり、プログラミングに関してはそのレベルの会社だとう事もまた明らかだ。

 とはいえ、どんなアルゴリズムであったとしても、速度的に問題にならず動作も確実であれば、それは「問題なく動く」と判断される訳であり、いやどう見ても馬鹿すぎるだろうというアルゴリズムが表に出てしまったとはいえ、それで動いてるならまぁ…と言えなくもない訳であり…。ある意味、複雑な気持ちではある。

 ま、そんな芸術的なまでに馬鹿なアルゴリズム(この場合、褒め言葉ではない)を考えつく会社が今後どんなオンゲをいじって行くか。そう考えると、個人的に興味は尽きないのである。
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2012年08月02日

神に代わる言葉

 古来、人知の及ばない所業の多くは「神」による物とされてきた。科学が進歩し、そうした所業の因と果が徐々に解明されてきた事により、神のせいではなく他の何か、はっきりした原因による物と判断されるようになってきた。

 人は、何か困る事象があればそれを排したいと考えるものである。否、それはおそらく人のみではあるまい。何にせよ、その事象を排すには、大きく分けて2つの方法しかない。つまりは、今あるその事象に対処するか、その事象の原因を何とかするか、である。よく風邪をひいて頭痛に悩まされるのであれば、頭痛薬で頭痛を鎮めるか、風邪を引かないように工夫するか、ということである。

 では、その「原因」を判断する時にどうするか。この方法は多岐にわたるからここでは詳しく語らないが、少なくともこれが「神のせい」であれば、その原因を排しようがない。神のせい以外ではどうか、と考えると、今も昔もその原因を、一見すると明確にしているようであって、案外そうでない…実は、昔から言う「神のせい」と、言ってることはさして変わらないな、という事が結構多いのではなかろうか。

 例えば、多分に偏見が混ざっている例ではあるが、黎明期の心理学などはそれに当たるのではないか。というのも、大抵の心の動きは最終的に「欲求不満」という物に行き着く。つまりは「欲求不満のせい」である。これは古来の「神のせい」と、さしたる差はないように思える。

 と、まぁ、前振りはこんな程度にしておいて。現代でもそういった物が割と身近にある気がしてならない。例えば、医学系。ぶっちゃけ、医者の知識の範囲で判断できない物は、「ストレス」「アレルギー」あるいは「生活習慣」といった物で片付けられてはいないか。そして、これらの単語を医者に言われて納得してはいまいか。我が身を振り返って、そう考える次第である。

 というのも小生のように40歳を超えると、人間色々と体の不調が出てくる訳である。で、医者にかかってみて、色々と言われるわけである。そして、ある医者と別の医者で、原因とする物が異なるケースが時々見られるわけである。そういった場合、片方が割と明確な説明をするのに対し、他方は「アレルギーかもしれません」「ストレスのせいかもしれません」的な説明をしている事に、経験上気がついた。

 いや、本当にアレルギー由来だったりストレス由来だったりする可能性を、小生決して否定する訳ではない。当然、専門家が専門的な知識を元に、そう判断する事もあろう。だが、そうではない場合も多分にあるのではなかろうか。

 例えば、専門の境界線付近…喉のように耳鼻咽喉科、口腔外科、内科(呼吸器内科など)といった専門の境界線が存在し、具体的に「喉のどこ」に原因があるかで専門家が違うケースなどがある。そういった場合今かかってる医者であってるかと考えれば、割と博打に近い確率ではなかろうか。または、内科や外科でもそれぞれ専門は多岐にわたるわけだし、最新の論文をどの程度まで追いかけているかでも知っている範囲は異なる。

 他にも、本当に専門分野ではない範囲で医者が対処しているケースだってあるかもしれない。咳が出るとして呼吸器内科にかかり、逆流性食道炎と診断されたとする。おそらくはそこで、胃酸を抑える薬を処方され、生活習慣によるものだから気をつけてねといった指導を受けるだろう。では、その胃液が逆流する原因は何か。それを考えるのに、仮に原因が胃にあったとすれば直接的な専門家は呼吸器内科ではなく消化器内科だろうし、骨格などによる胃袋の圧迫であれば外科的な話にもなるだろう。本当に生活習慣が原因だとしても、では具体的にどのような物を食べ、どのような食べ物は避け、どのような生活をし、会社などの要因でその理想的な生活が出来ない場合はどうしろ、といった事細かな指導を得ることが出来るか。小生がものすごく不運なのでなければ、小生の個人的な経験の範囲から考えるに、こういった原因から解決するための指導が得られるのはかなり幸運なケースではなかろうか。いや…我が身の不運っぷりには自信はあるけどさ…。

 何より自分のかかった症例が、その医者が知っている症例に当たらない可能性があり、その医者が必ずしも正しい判断が出来るとは限らない。これは、セカンドオピニオンという考え方が昨今では一般化している点からも明らかであろう。

 ここで、話は最初に戻る。わからない物の原因は何だと人は言うか。太古の時代は「神」と言った。裏を返せば、「神のせい」であるとされた物は「原因がわからない」という事に等しい。ならば、現代の医学…否、特定の医者に行って「神のせい」に通じる言葉が出てきた場合、それは暗に「原因がわからない」と言っている可能性を判断する1つの指標となるはずだ。上で小生は「ストレス」「アレルギー」「生活習慣」などを挙げたが、これに限らず明確に「これ」という具体的な説明がなされなかった場合、別の医者にかかってみるのも1つの手なんじゃないかな、と個人的に思うようになった次第である。

 くれぐれも…医者を疑えと小生は言っているのではない。だが、医者という立場上「わからない」と言い難いのもまた、事実だとも思う。故に、そこは患者の側でその意味を汲み取るのが、お互いのために良い関係なんじゃないかな、と個人的に思う次第である。というか、ぶっちゃけ小生が病んだいくつかの症例において、そういった経験があった、というだけの話なのであるが。

 本当は、医者が自分の知る範囲の中で「これとこれには当たらないですね、あとは私にはわかりません」と言ってくれて、それを元に他の医者を探すというのが、一番いい方法なんじゃないのかなぁ…とも思う。でも、初診料がかさむんだよなぁ。
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2012年08月01日

重曹パスタ

 スパゲティを茹でる時、湯に重曹を混ぜるとラーメンの麺になる…などという面妖な話を、ネットの世界で垣間見ることがある。実際、理屈としては小麦粉を練る時にアルカリが入っていればラーメンの麺に近くなるのは道理であって、ならば茹でるステップでという話もわからなくもない。まぁ麺がもっと固いというか吸水しない性質のものであればともかく、芯まで水分が通るのがパスタの乾麺の茹で方である故、茹でる湯がアルカリであれば一応は芯までアルカリも浸透しよう。気にかかるのはアルカリとの反応時間だが、それもさほど長くないのであれば…まぁ、成立しなくはないのだろう。

 何はともあれ。論より証拠。迷ったときは己の五感を信じよ。そして信じるものは馬鹿を見る。というわけで、自分でも作ってみた次第である。

 茹で水に重曹を少々。小さじ1杯2杯程度を入れて沸かす。パスタとして茹でる時と同様に塩も少々加えたのだが、これは不要だったかもしれない。というのも、パスタを茹でる時に塩を加えるというのは諸説あるが、そのいずれにもラーメン用途では必要無さそうである。まず塩を入れる理由の1つには味付けがあるが、ラーメンの汁は元から濃いため不要である。2つ目として塩分が入ることで麺の小麦グルテンが結合して噛みごたえが良くなることだが、これはアルカリを入れることで麺が柔らかくなってしまうためあまり意味がなさそうだ。

 余談ながら、パスタを茹でる時の塩の理由に「沸点の上昇」があると本気で信じている人が居るようだが、これはちょっと無理がありすぎる。確かに、高校辺りで習う「モル沸点上昇」なる作用があって、食塩で沸点を上昇させる事は出来なくもないし、沸点が上がるからと称する人の論点もそれである。ならば、そのモル沸点上昇についてもう少しだけ調べてみればよかろうに…と、本気で小生は思う。というのも、1リットルの湯の沸点を3度上げるのに200g近い塩が必要となる。それだけ入れたら、パスタが塩辛くなってとても食べられない。だからといって、小さじ数杯程度では沸点の上昇は1度に満たない。そして、その程度の温度変化では茹で上がりに影響が出るとは考えにくい。いや、厳密には出るかもしれないが、その影響よりよほど塩味や塩によるグルテン結合作用の影響のほうが大きいため誤差にしかなるまいて。

 話がそれたが、まぁこれがパスタを茹でている時間だとでも思っていただければ程よい頃合いかもしれない。さて、茹で上がったパスタはというと、普段よりよっぽどしなっとしている。茹で過ぎた感じのように見えて、時間的にも噛みごたえ的にもそうではないように思える。

 では、と、ラーメンのスープの中に投入。具を適当に用意して…出来上がり。お味は…ふむ…うん。食感的には全く違和感ない。太麺のラーメンである。これは、案外おもしろい話なのかもしれない。

 この方法はおそらくスパゲティ、ではなくパスタ全般に通じる手法であろう。というか、上で考察した原理であれば通じないはずがない。ならば…と、少し考えてみる。何を考えたかというと、コンキリエ、フリッジ、フェンネ…日本でもメジャーな物だと穴の開いたマカロニ、平らなパスタであるラザニアなど、パスタの種類は多々あるという事を考えた。これはつまり、例えばマカロニで冷やし中華的な物が作れる事を意味する…はずである。油麺的な物でもよさそうだ。蝶の形をしたファルファッレを中華あんかけ的な物で食べるのもいいかもしれない。あるいは、中華麺で焼きそばを作れるあたりから、そっち方面の応用も出来るかもしれない。例えば、広島風お好み焼きでそばの代わりにラザニアを…いやいや、さすがにそれは無茶か。

 ふむ、ちょっとだけ料理の世界が広がるのかな。いや、結局はトンデモ料理の類であろうか。興味は尽きないが…とりあえず次は、マカロニ的なショートパスタで油麺系でも試してみるか。
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